バレーボールの歴史
バレーボールは,1895年にアメリカのマサチューセッツ州ホリーヨーク市にあるYMCAの体育指導者であるW.G.モルガン氏によって考案されたものです。
サッカーやラグビーなどは自然発生的に生まれたスポーツと言われていますが,バレーボールは初めからスポーツ競技として考案されたものです。4年前の1891年には既にバスケットボールが考案されていましたが,モルガン氏は,テニスにヒントを得て考案し,テニスのボレーからバレーボールという名が付けられたとされています。当初はネットの高さは6フィート6インチ(約2メートル)で,テニスのネットや普通のロープが用いられたということです。また,ボールにはバスケットボールの中に入れるチューブなどを用いたようですが,試行錯誤の末,翌1896年に当時のボールメーカーであるスパルディング兄弟商会の手によって,現在用いられているものとほぼ同じボールが作られました。
1896年には,1チーム15人からなる2チームの選手によって,公開ゲームが行なわれ,その後各地のYMCAを通じて,アメリカはもとより世界各地に広く普及していきました。わが国には,1913年にフィリピン・マニラ市のYMCA体育指導者であるF.H.ブラウン氏によって紹介されました。アメリカで誕生してから約18年後のことで,この時には16人制バレーボールでした。
日本では,当時の神戸高商(現 神戸大学経済学部)が,バレーボールを学校として最初に取り入れていち早く部を創設し,バレーボールの発展に寄与するとともに,1923年(大正12年)の第6回から1927年(昭和2年)の第8回までの極東大会の日本代表チームとして活躍し,幾多の名選手を生み出しています。この極東大会ではフィリピンや中国と対戦し,第9回大会までは全敗の成績でしたが,1932年(昭和7年)マニラにて開催された第10回大会で中国から初の1勝を挙げ,これが日本の国際ゲームにおける初勝利とされています。
この極東大会への日本代表チームの参加を契機として,わが国でも急速にバレーボールが発展していきました。1924年(大正14年)には関東,関西バレーボール協会が,1927年(昭和2年)には日本バレーボール協会が設立され,組織や機構の整備とともに本格的な発展をとげました。
太平洋戦争によって一時中断されたものの,戦後は急速な復活をとげ,特にアジア大会などでの日本チームの活躍は目覚しく,アジアでは無敵を誇っていました。当時アジアでは1927年(昭和2年)の第8回極東大会からは採用された9人制バレーボールでしたが,国際的には6人制バレーボールが主流となっていました。日本は1951年(昭和26年)に国際バレーボール連盟に加盟し,1953年(昭和28年)に早稲田大学チームがアメリカへ遠征して,6人制バレーボールが紹介されました。
1955年(昭和30年)に開催された第1回アジアバレーボール選手権では,9人制と6人制の両方の競技が実施され,日本は9人制では優勝したものの,6人制では惨敗を喫し,これを機に6人制バレーボールの推進が本格的に行なわれるようになりました。1957年(昭和32年)にモスクワで開かれた第3回世界青少年友好大会に初参加しましたが,この大会には,当時の世界ランキング上位チームである,チェコ,ソ連,ルーマニア,ポーランド,ブルガリアなどの東欧諸国も参加し,日本は9人制で育った代表選手団を派遣して,大会参加16ケ国中8位というまずまずの成績を残しています。
その後,日本では本格的な6人制バレーボールへの取り組みが行なわれ,1964年(昭和39年)に東京で開催されたオリンピックでは,「東洋の魔女」の異名で呼ばれた,大松監督率いる日紡貝塚が日本代表として参加し,見事金メダルを獲得し,日本のバレーボールはついに世界の頂点に立ちました。
(以上の歴史は,種々のバレーボール参考図書に記載されている内容に基づいて作文したものです)