発 展 期
日本チャンピオンへの道


 大正15年に豊島明男氏が創設した「呉水雷クラブ」は,兄貴格の「壬士倶楽部」との練習を重ね,互いに切磋琢磨してメキメキとその実力をつけていった。そして,昭和2年には壬士倶楽部を抑えて第4回明治神宮体育大会に初出場し,準優勝するという好成績を収めた。
 その当時の日本
バレーボール界は,神戸高商の独壇場であり,全国各チームは「打倒・神戸高商」が一致したスローガンであった。そして,豊島明男監督の率いる「呉水雷クラブ」は,昭和7年の全日本排球選手権大会で,遂に大正13年からチャンピオンの座に君臨して8年間不敗の記録を続けていた王者・神戸高商に替わって,初の日本一の栄冠に輝いた。
 一方,壬士倶楽部の創設者であった河野実一氏は,水雷クラブ,むつみクラブ(呉工廠魚雷実験部のチーム),音戸青年の代表者に呼びかけ,昭和3年5月27日に「呉排球協会」を設立した。当時の呉協会は未公認であったが,昭和5年11月に大日本排球協会に公認の申請をして,翌昭和6年3月1日付けにて正式に認可された。ちなみに大日本排球協会の設立は昭和2年7月であった。

   

1927年
(昭和2年)
呉のバレーボール黄金時代の幕開け
呉水雷クラブが県予選会で壬士倶楽部を破って第4回明治神宮体育大会に初出場した。本大会においても,東京コメットクラブ,八高を連覇して決勝戦に進出。決勝では常勝神戸高商に敗れたが,初出場で見事に準優勝を果たした。
1928年
(昭和3年)
呉バレーボール協会発足
壬士倶楽部の創設者 河野実一氏の主唱で,「呉排球協会」が設立された。
この年から明治神宮体育大会は隔年ごとの開催となったが,大日本排球協会の主催で第1回全日本排球選手権が開催された。中国支部代表として出場した呉水雷クラブは,決勝戦に進出したが,神戸高商に敗れて準優勝であった。
なお,この年に第1回関西女子中等学校排篭球大会が開催され,呉から「精華高女」が初参加した。呉での女子バレーの始めであった。
1929年
(昭和4年)
神戸高商を呉に迎えての招待試合で,当時無敗を誇った神戸高商から,初めて貴重な1セットを奪う健闘を見せ,その実力差の接近を感じさせた。
1930年
(昭和5年)
呉水雷クラブの「谷山 峻」選手が,呉出身としては初めて全日本代表選手となり,明治神宮特設コートにて行なわれた第9回極東選手権(参加国:日本,中国,フィリピン)に出場した。
1932年
(昭和7年)
呉水雷が初の全日本チャンピオンに
呉水雷クラブが念願の全国制覇を成し遂げた。大正13年から王者に君臨し8年間不敗を誇った「神戸高商」に取って替わっての優勝で,これから「呉工廠時代」といわれる呉のバレーボール全盛期を迎える。