1933年
(昭和8年) |
呉工廠チームが明治神宮大会に優勝
前年全国制覇した「呉水雷クラブ」に「呉砲熕クラブ(壬士倶楽部の後身)」の選手などを加えた全呉工廠チーム」を編成してベストメンバーで臨んだ第7回明治神宮大会で,決勝で神戸高商を倒して見事初優勝を飾った。
なお,この年の6月に呉二河公園内に排球場(2面,スタンド収容人員700名)が完成した。(二河バレーコートの前身が誕生) |
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1934年
(昭和9年) |
第10回極東選手権大会
前年の明治神宮大会で優勝した呉工廠から,土田,谷山,大橋,永井,田代の5選手が第10回極東選手権大会の候補選手に選出され,最終的には土田 弘,大橋
太郎,谷山 峻の3選手が,フィリピンマニラで開催された第10回極東選手権に全日本大乗選手として出場した。
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呉工廠チームが全日本排球選手権で優勝した。
決勝戦はこの頃頭角を現してきた学生王者の「早稲田」との戦いであったが,ジュースの連続となる大熱戦の末,フルセットで呉工廠に凱歌が挙がった。 |
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「砲熕部チーム」が,第4回関西実業団排球大会で優勝した。
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1935年
(昭和10年) |
呉工廠が明治神宮大会連覇
この年は呉工廠チームは,夏の全日本排球選手権では準決勝で早稲田に敗れたものの,秋の明治神宮大会では早稲田に雪辱を果たして,第7回大会(昭和8年)に続く連覇を達成した。(明治神宮大会は隔年開催)
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1936年
(昭和11年) |
この年の全日本排球選手権の決勝戦は,再び「呉工廠」と「早稲田」の両雄が相対することになったが,呉工廠が勝って,大会3度目の優勝を果たした。 |
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1937〜39年
(昭和12〜14年) |
この頃から世は非常時局・戦争へと向かって行った。呉工廠では戦艦大和の建造に極秘裏に着手した。呉工廠の選手にも召集がかかり戦地に赴くものも出て,暗い時代の幕開けでバレーボール活動にも大きな支障を与えた。
昭和12年から14年の3年間は,全国大会への出場を自粛し,日本排球界から「呉工廠」の盛名が一時姿を消すことになった。 |
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この当時,呉では土肥高女チーム(現在の清水ケ丘高等学校の前身)が力をつけて,全国でも活躍している。昭和12年に全日本排球選手権に出場した同校は,見事に準優勝を飾った。 |
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1940年
(昭和15年) |
呉工廠が3年ぶりに全国大会出場
呉工廠が3年ぶりに全日本排球選手権,明治神宮大会に出場し,明治神宮大会では決勝で宿敵「早稲田」と対戦したが,惜しくもストレート負けして準優勝に終わった。 |
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1941年
(昭和16年) |
この年に太平洋戦争に突入。全日本排球選手権は中止となったが,明治神宮大会だけは中止を免れ,呉工廠チームは決勝戦で満州代表の昭和製鋼と対戦して苦杯をなめ,惜しくも2年連続での準優勝に終わった。 |
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1942年
(昭和17年) |
呉工廠が明治神宮大会で3度目の優勝
世の非常事態を反映して国民練成大会と名を改められた明治神宮大会には,呉から女子の土肥高女チームと男子は常連の呉工廠チームの両チームがアベック出場となった。
女子の土肥高女チームは見事に決勝まで進出したが,中村高女にフルセットの大熱戦の末に惜しくも敗れて準優勝に終わった。
一方男子の呉工廠チームは,決勝で朝鮮鉄道と対戦して,後衛の両翼も攻撃参加する「8人攻撃」という珍しい戦法が開花して3度目の覇権を握り,見事に有終の美を飾った。
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この翌年(昭和18年)から時局多難により大会は中断され,昭和20年8月に終戦を迎えて呉工廠は解体され,ここに日本バレーボール界に君臨した「呉工廠」は遂に消滅した。 |
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